日本の鎖国とオランダ
1616年の徳川家康の死後、江戸幕府はキリスト教の拡大を恐れて鎖国政策に傾き、外国貿易にも糸割符制度などの統制を強化するようになった。その中で1637年に島原の乱が起きると、平戸オランダ商館は大砲などを幕府に提供して一揆鎮圧に協力した。その結果、1639年にポルトガル船の来航は一切禁止(がれうた追放令)され、江戸幕府はヨーロッパ諸国の中ではオランダとの交易を許したが、1641年からは長崎の出島にオランダ商館を移した。オランダ人は狭い出島に閉じこめられ、日本人との自由な貿易や接触はできなかったが、それでも貿易の独占権を得たことは重要で、出島のオランダ商館の中国産生糸と日本の銀・銅の交易は東インド会社のアジアの商館の中で最も大きな利益を生んでいた。
またオランダ商館長は毎年、江戸に参府して「オランダ風説書」を提出し、それは幕府にとって貴重な海外情報となり、また通詞によってオランダから伝えられた医学その他の学問は、蘭学として日本の学術文化に大きな刺激となった。
しかし、長崎貿易で貿易を許されていた中国商人は、同じように唐人屋敷に居住区を限定されていたが、次第に生糸などを直接日本人と取引してオランダを上まわる利益を上げるようになったため、オランダの対日貿易は次第に停滞していった。
オランダ東インド会社と日本の有田焼
17世紀前半、明朝から清朝へという大きな変動が東アジアで起こった。それまで景徳鎮の陶磁器貿易で大きな利益を得ていた東インド会社は、1652年以降は一点の陶磁器を手にいれることもできなくなった。そこでその代替品を焼く場所として浮かび上がったのが、豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に連れてこられた李三平らによってスタートしていた有田であった。江戸時代の慶安4(1651)年にまずオランダ東インド会社は有田焼を買いつけている。ついで承応2(1653)年には有田焼の芙蓉手染付など2200個が輸出され、寛文4(1664)年には出島より45000個の磁器が輸出された。それ以来、日本の磁器産業は急速に延び、当初は中国風の染付が主であったが、漸次日本的デザインが作られるようになり、色絵の柿右衛門のものも欧州でなじまれ、有田焼であるが積み出し港の伊万里の名が世界的にも通るようになった。ドイツのマイセンも当初は中国風の磁器を作ろうとしたが、間もなく日本の柿右衛門風の色絵を作るようになった。オランダ東インド会社によってもたらされた日本の陶磁器が,ヨーロッパに与えた影響は大きい。
オランダの危機と別段風説書
18世紀末のフランス革命に始まる動乱の中でオランダも危機を迎え、1795年に連邦共和国は滅亡、新たに成立したバタヴィア共和国は東インド会社を経営不振を理由として廃止した。さらに1806年からは本国は実質的にフランスの支配を受けた。1808年8月にはフランスと敵対していたイギリスの軍艦がオランダの艦船を追って長崎に強制入港するというフェートン号事件が起きた。1811年からはバタヴィアをイギリスに占領され、オランダ国家とその植民地が消滅するという事態となった。しかし、長崎のオランダ商館は江戸幕府に対して、東インド会社の解散やオランダ国家の変動を知らせず、出島は当時世界で一ヶ所だけオランダの国旗を掲げ続けていた。
1814年、ナポレオンが没落し、オランダ立憲王国(連合王国)が成立、バタヴィアもオランダに返還され、オランダはバタヴィアを拠点とするアジア貿易を再開したが、長崎出島では依然として「東インド会社」の商館として取引を続けた。19世紀になると日本の鎖国を取り巻く世界情勢も大きく変化し、ロシア、アメリカ、フランスなどが日本近海に進出し始め、1840年にアヘン戦争が起こる。これらの諸国の動向をバタヴィアのオランダ東インド政庁がまとめて江戸幕府に知らせたのが「別段風説書」といわれるもので、その一つが1852年のアメリカ合衆国のペリー艦隊が日本に開国を要請するために派遣されるという情報であった。このほか、ロシアのレザノフや、アメリカのビッドルらの使節来航も幕府は別段風説書によってその情報を得ていた。
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